【本紹介】売りたければ「買ってください」は言うな
こんにちはこすけです。
世界中で猛威を奮っている新型コロナウィルスですが、沖縄は幸い42日連続で感染者ゼロを記録しています。
このまま収束してくれることを願っています。
さて、今回の投稿で第四弾となります。
身近な人からはブログ見ているよと声をかけていただき、PV数も100人超えました。
いつもありがとうございます。
この調子で頑張っていきたいと思います。
それでは、本日お届けする一冊をご紹介したいと思います。
今回、お届けするのはこちらの本です。
売りたければ「買ってください」は言うな
著者の森山さんは沖縄ご出身で現在72歳。
沖縄のラジオCM「崇元寺石門向かいの琉球補聴器」でお馴染みの株式会社琉球補聴器の創業者でいらっしゃいます。
リタイアした現在、沖縄本島北部で自給自足の生活をしながら人生を謳歌しているそうです。
沖縄出身の経営者の本ということなので期待を胸に読んでみたところ、人生の大先輩から学ぶことは、やはりとても勉強になることばかりでした。
それでは、早速紹介してまいります。
株式会社琉球補聴器は沖縄県内では初の「日本でいちばん大切にしたい会社大賞」で受賞をした会社です。
社員がイキイキと働くその会社は一体どのように誕生したのか。
その秘話について迫っていきます。
1章 不屈の精神は大志に宿る
「苦しくても壁に当たっても大丈夫。泥棒以外は勇気をもってやりなさい」
著者の森山さんは、沖縄県宮古島から約62km離れた多良間島で生まれました。
幼い頃は4畳半の部屋で過ごし、とても裕福とはいえない家庭でした。
少しでも家計を楽にしたいという思いからさまざまなアルバイトをしました。
たとえば、港での売り子。宮古島の玄関口でもある平良港を利用するお客様に、お菓子や酔い止めの薬、別れの紙テープなどを売っていました。
しかし、手当たり次第に利用者に声をかけても商品は売れませんでした。
そこで、森山少年は相手をよく観察した上で話しかけることから始めてみました。
別れを惜しんで涙を浮かべている人には、
「この紙テープで、別れの握手をしませんか」とささやき、
子ども連れの旅行者には
「長旅になるのでお菓子を食べて過ごしてください」と勧めたのです。
すると、みるみるうちに商品が売れていきました。
夏には、街中で呼び込みの鐘をならしながらアイスを売ったこともありました。
まだ小学生だった森山少年は、同級生にその姿を見られるのがとても恥ずかしく、実際に笑われたり、からかわれたりしたこともありました。
しかしそんな時に母から言われた言葉は、
「苦しくて壁にあたっても大丈夫。泥棒以外は勇気をもってやりなさい。恥かしがることはない。なんでもやりなさい。」
でした。
そんな少年時代の苦しみをひとつひとつ乗り越えていくことで、力強さが培われていったのです。
1ヶ月間、那覇近郊の電気店を徒歩で回った
初めてみる那覇の明るさに森山少年はただただ感動するばかりでした。
そんなこんなで職探しが始まるわけですが、当時はもちろんインターネットもない時代なので直接飛び込みで就職先を探しました。
バス賃もないので那覇市近郊や沖縄市など徒歩で3〜4時間もかけて歩き回るのでした。
ところが、1ケ月たっても就職先はみつかりません。
宮古島へ帰ろうとあきらめかけていたその時、親戚の知人が電気店を経営しており倉庫係を探しているとのことで紹介をしてもらうことになりました。
下働きでも「きっといつかは」と志を高くした
森山さんの初めての仕事は、倉庫係からのスタートでした。
その会社は50名ほどの社員がいる大手電機メーカーの代理店でした。
仕事はというと電気メーカーから届く商品を倉庫に並べるといういわば雑用係です。
猛暑の沖縄ということもあり夏場はとくに厳しい労働環境でしたが、それでも気持ちはいつも前向き。
誰にいわれるわけでもなく早朝に出勤しては社用車の洗車、事務所の掃除をするのでした。
こうした意欲的な活動と、当時はまだ珍しかった運転免許をもっていたこともあり、トラックドライバーの部署へ異動することが決まりました。
過去に売り子をしていたおかげで、取引先では誰よりも笑顔でそして大きな声であいさつをし、担当者の名前も全員覚えていました。
そうして取引先との信頼を築いた結果、入社3年目には営業担当に任命されました。
倉庫係から営業になったことは、いわば大出世でした。
「オマエみたいはやつは来るな」こう叱ってくれたK氏は我が人生の師
大手電機メーカーの代理店に就職して5年目、営業マンとして最初の転機が訪れました。勤務先が従来の問屋から小売に業態転換したのです。
森山さんは「誰も気に留めていない新たなビジネス」を生み出すチャンスを狙っており、そこで目をつけたのは、当時そこまで注目されていなかったカセットテープの販売でした。
早速、品質に定評のあったメーカーと取引を開始し、市場の開拓に乗り出しました。
森山さんは、ターゲットを基地に駐留している約10万人の米兵に定めました。彼らは音楽をこよなく愛し、本国との家族とはカセットテープを手紙代わりに使っていたので大きな潜在需要が期待できたのです。
基地の町・コザ(現沖縄市)のミュージックショップで飛び込み営業をかけていた時、当時販売会社を経営するK氏と出会いました。
この出会いで森山さんは人生の師と呼べる人を見つけることになります。
最初の頃は全く取り合ってもらえず、それどころか5〜6時間説教され、
「オマエみたいなやつは来るな」
とさえ言われたほどでした。
当時の森山さんは、朝方まで呑みほうけ休日は昼まで寝るなど自堕落な生活を送っていました。そんな森山さんに勝を入れてくれたのです。
冷たく突き放されても食らいつく森山さんに対して次第にKさんも心を開いていきました。
それ以来、森山さんの生活習慣は一変しました。
毎週5〜6人のメンバーで行う読書会に呼ばれ参加するうちに一端の読書家になりました。
それ以外にもビジネスの厳しさや日本経済の見方、人としてのあり方から接待のしかたまでありとあらゆる事柄を教えてくれました。
それからというものk氏とは二人三脚でさまざまな販売戦略を立て、果敢に実行しました。
そのおかげもあり、カセットテープの販売においても大ヒットを飛ばし、森山さんの社内における評価も右肩上がりでした。
「独立した方が儲かるんじゃないか」
という助言もあるほどでしたが、路頭に迷う寸前だった森山さんを拾ってくれた社長には恩義があり、独立する気は毛頭ありませんでした。
素直だからこそ、自分の殻を破って脱皮できる
飛ぶ鳥を落とす勢いの森山さんは、今度は社内でビデオデッキを月間70台販売するという目標を掲げました。それまで月に1〜2台しか売れなかった商品なので大ブーイングでした。
そんな批判には怯むことなく、自身で作戦を立て着々と販促活動を続けました。
結果、最初の1週間で3台の販売実績を作ることが出来ました。
そんな森山さんに触発された社員はだんだんと奮起し始めます。
売れないと恥ずかしい。そんな雰囲気さえ流れていました。
そして1ヶ月後、なんと180台を売り切っていました。
これには、電機メーカー本社でも号外が配られ、取締役が直々に本社から駆けつけ称賛するほどでした。
この1件で、森山さんは「素直さ」の大切さを実感しました。
素直さとは、人が言うことを受け入れる姿勢です。同時に自分の可能性を信じることでもあります。
一方、素直でない人は、困難に遭遇すると「できない理由」を探そうとします。
口癖はいつも「でも・・・」という言葉です。
素直さに欠けると、いつまで経っても脱皮できません。
そうしていつの間にか仲間から取り残され、結局、ドロップアウトすることになる人生になるのではないでしょうか。
私たちは日頃、「自分には難しい」「時間がないから」などと理由をつけて、安易な方向に進みがちですが、そうした邪念を払ってネガティブな自分から抜け出すことができると、心のスイッチが入る瞬間がきます。それは異次元の世界への入り口なのです。
2章 はじめから万事うまくいくわけがない
補聴器販売の始まり
社内ではきたる高齢化社会の到来を見据え、補聴器事業が開始していました。その部門を率いるように言われたのが32歳のことでした。
まず始めに補聴器を買ってもらうには補聴器自体の認知度からあげていかないといけないという思惑から「無料相談会」を実施しました。
役場や老人ホーム、公民館などを会場に開催していきました。
当初は、反応もいまひとつだったものの継続して実施することで、徐々に実績を積み上げていくのでした。
しかし、40歳を迎えた頃、これまで大変お世話になった社長が急逝されました。
大変な悲しみであり、ショックでしたが、それは周りの社員も同じでした。
リーダーを失った会社は求心力を失いつつありました。
そんな中、森山さんを含む10名メンバーは、毎朝近くの公園で将来について会議を行いました。
そして、しばらく経って出た結論は、
「自分たちで補聴器の会社をつくろう」
でした。
森山さんは社長として、まだ若手だった部下10名を引き連れ独立開業に踏み切りました。
場所は、おなじみの那覇市崇元寺通り。
急ピッチで作業をすすめ、ようやく昭和62年11月12日
「株式会社琉球補聴器」
が誕生しました。
険しくも楽しい船出だった
補聴器店は、お客様、知名度、信用も全くなく、まさにゼロからのスタートでした。
限られた資金のなかで節約に節約を重ねました。
営業車両はどれも廃車寸前、エンストは日常茶飯事でした。
名刺も、社内の中古コピー機で印刷、ダイレクトメールは手書き、連日連夜無休で作業、そしてチラシ配りは続きましたが、苦労よりも新たな船出をした喜びの方が大きかったのでした。
3〜4ヶ月がたつと徐々にお客さんも増えようやく補聴器専門店らしくなってきました。
最初に補聴器が売れた時には皆で手を取り合って喜びました。
それからというもの年中無休で怒涛の毎日を過ごしました。
将来に不安を覚え、1年間で4人も辞めていきました。
それでも必死に足を踏み出し続け、気づいた時には大晦日でした。
創業して初めての大晦日、会社に残り除夜の鐘を聞きながら
「なんとか1年を乗り切った」
とひとり涙する森山社長がいました。
琉球補聴器はそうやって始まっていったのでした。
小さなことを積み上げて「そこまでやらなくても」と言われるまでやり続ける
創業から3年がたった頃、ようやく会社らしくなってきました。
そして5年目になると、ようやく将来への不安が薄らいできました。
そして創立10年目を迎えると、お客様や取引先も定着し、関連業者や社員の家族からも信頼してもらえるようになりました。
それには、小さいことを積み上げていくことが大切です。
琉球補聴器では、取引のある病院の開院記念日に毎年、ケーキ店に特注したアニバーサリーケーキをお祝いとして持参するのが慣例になっています。
初めは、驚きながら喜んでくれますが、5年目くらいになると恒例行事のようになり迎え入れてくれます。
こうした目先の損得にとらわれない小さなサプライズで、相手を喜ばすことができれば、信頼関係も深まるはずです。
ここで忘れてならないのが、「そこまでやらなくても」と思われるまで、コツコツと続けること。企業の文化として根づかせることができれば、申し分ありません。
やればやるほど楽しくなる
どんな仕事でも、楽しいと感じるまでやり続ける。
仕事で頑張った時の最大の報酬は、給与ではなく「自己成長」です。
楽しいと感じるまでやり続ければ、たいて結果がついてきます。そこには大きな達成感があり、経済的な報酬以上の喜びが得られるでしょう。
仕事も、人生におけるひとつの「出会い」です。
せっかく出会った仕事ですから、自分を磨くためにやり続ける。それが、自己成長を促し、成功に繋がるはずです。
また、「いい出会い」をするには、大きな夢、高い志をもち、つねに上を見て自分の器を広げることも大事です。
はじめは、できそうにない夢物語でもいい。その実現には「なにが必要なのか」を常に意識することが大事です。
その思いが夢を引き寄せるのです。
3章 社員の「仕事力」を高めるツボとコツ
とことんお客様に尽くす。はじめから「ノー」とは決して言わない。
お客様にリクエストされた内容が、非常に難しい場合でも、はじめから「できません」「無理です」などと、ノーの意思表示をしては、お客様を遠ざけてしまいます。
琉球補聴器では、こうした接客はしません。
突き放すのではなく、一緒に対策を考えるのです。
顧客満足度がトップクラスのリッツ・カールトンホテルでは、部屋が満室であっても決して断らず、近隣のホテルを代替案として提案するそうです。
ただそれでも社会規範から逸脱した不当要求や暴言を繰り返すお客様もいます。
その場合は、社会常識に照らし合わせて、毅然とした態度で臨む必要があります。
ただ、「できないことは、できない」ときっぱり伝えられるのは、日頃からお客様¥に真摯に態度で接しているからです。仕事への取り組み方が中途半端であれば、毅然とした態度はとることはできないでしょう。
言い換えれば、お客様のリクエストに「はい!」と躊躇なく応えられる人が、堂々と「ノー」を伝えることができるのです。
断られた時がスタート
営業が苦手だという人の多くは、「断られる」ことを過度に恐れています。
そんな人は「断られたからといって、命まで取られるわけじゃない」と開き直ることで心のスイッチを切り替えることができます。
「断られたときが本当のスタート」
「断られてからが本番」
「難しいお客様こそ自分が成長する絶好のチャンス」
という意識で取り組むことが大事です。
その経験を繰り返すと自信につながり、コツをつかめるようになります。
プロとして専門的立場から提案する
琉球補聴器では、「買ってください」というセールストークはほとんど聞かれません。
「今日は、買わないで、一度試してみてはいかがですか?」などとお客様の意思を確認しながら補聴器の効用を説明し、お客様に寄り添ってつねにプロとして専門的立場で提案を重ねます。
本題に入る前のアイスブレイクでは、緊張をほぐすためにお客様の喉元に視線を落としますが、聴力測定のために検査室に入ったらお客様と視線を合わせる。検査機器に目をむけていては、お客様に不快感を与えてしまいかねないからです。
こうした所作を身につけてこそ、本物の「プロ」といえるでしょう。
お客様が「お願いだから売って欲しい」と言うまで、とことん尽くす。
これが琉球補聴器のモットーです。
苦手意識は準備不足が原因。スキルは使えば使うほど磨かれる
やる気はあっても苦手意識が先立って尻込みしてしまう。
しかし、苦手意識は能力や性格よりも準備不足に起因することが多いものです。
商談でも準備がしっかりできていれば、「いまか、いまか」と心待ちにするのではないでしょうか?
ところが、準備が不十分だと緊張と不安で強張ってしまいます。
準備が万全であれば、その後の経過も順調となり仕事を存分に楽しめるのです。
こうした「成功パターン」が習慣になれば、トップセールスマンになるのに時間はかかりません。ワクワクするゴールをイメージしながら、準備を怠らないことが大事です。
4章 仕事を総括して人生を楽しむ
がんと宣告されて「ハッピーリタイア」を決意した
森山さんは40歳で創業し、60歳で社長の座を息子へ渡し会長へ、63歳で完全引退しているのですが、55歳の頃には引退後の生活に思いを馳せ十分に楽しむことを決意していました。
そのきっかけが、大腸がんの宣告でした。
ただ、一般の方だと心が折れてしまうところを森山さんは違いました。
若い頃から、困難の壁にぶつかった時こそポジティブ変換し生きてきました。
命はひとつ、会社や家族のことを考えると完治させるしかない。
そう考えた森山さんは沖縄県内の病院ではなく、世界トップレベルのがん治療をおこなっている東京・築地の専門病院へいくことにしました。
営業経験を活かして専門医を訪ねる
その病院には紹介状も予約もなしで飛び込みました。
当然、門前払い。
「紹介状がないと診察カードはつくれません。診察までは3〜4年待ち」と告げられました。
しかしこの一言で、森山さんの「断られてからがスタート」という信念が覚醒しました。
まず、胃腸科外来の担当医表から大腸専門医を見つけ、顔写真も確認しました。
そして、直接交渉。ここで役立ったのが、琉球補聴器での営業経験です。
医師の日々の行動は、おおよそ予測がつきます。
朝からぶっ通しで診察している先生は、11時頃にトイレに立ち、14時過ぎに昼休憩に入ります。そこを狙って待ち伏せしました。
予想は的中、昼過ぎにその先生が診察室から出てきました。
すかさず、先生に駆け寄り顔と顔がひっつくほどに近寄りました。
経験上、この距離で話しかけられるとたいていの人は立ち止まって話を聞いてくれると思ったからです。そこからは早口で事情を伝えました。
断られても諦めずに言葉を絞り出し続けました。
「それでは、夕方に56番の検査室の前に来てください。」
熱意は伝わり、受付も通すことなくいきなり診察を受けることができたのです。
そして1ヶ月後に手術。
結果は大成功でした。
「私は今後、営業をやりません」この一言で社員に本気のスイッチが入った
がんになってはじめて、人の命には限りがあることを実感しました。
これまで年中無休でがむしゃらに働いてきましたが、がんになってからは、
「どうせ死ぬのだから、自分の好きなことをしたい」と考え方が一変しました。
これまでは食事の時間も惜しんで、昼食は移動の車中が当たり前。
夜は、経営者仲間と居酒屋でお酒と揚げ物という毎日の繰り返し。
しかし退院後は、玄米を主食とした菜食に切り替え、あれだけ大好きだったお酒もやめました。
また、運動を目的に散歩を日課に取り入れました。
仕事では、ストレスをためないために
「私は今後、プレーヤーとして営業をやりません。皆んなに任せます。」
と宣言しました。
これまで会社の代表でありながら営業の第一線で陣頭指揮をとっていた森山さんですから、社員は大変驚きましたが逆に社員に本気のスイッチが入りました。
それからというもの社内の空気が変わり、業績も伸びてきたのです。
大自然のなかに「大人の遊び場」を見つけた
会社をリタイアしたあとは、沖縄本島北部の東村に居を移しました。
5000坪ほどの土地を購入し、住処と畑をつくりました。
自然農を学ぶために全国津々浦々、海外までも視察にいきました。
そうして自分で作った無農薬野菜と取り立ての卵、ミネラル豊富な海風ときれいな空気のもと、本格的に農的暮らしをしていくようになりました。
自宅のまわりには、スーパーもコンビニもないので都会と比べると不便なこともありますが、それでもこの生活が幸せなのです。
会社経営と農的暮らしの根本的な違い
「のんびり暮らす」とは、ストレスがないことです。約束事や責任がないことが「のんびり」なのです。
会社経営をしている時も、「今日はのんびりとした1日だった」と思うことがあっても「約束」や「責任」あるいは、「目標」などに縛られて、落ち着かない日々でした。
このことを、田舎暮らしを始めて、あらためて思い知らされました。
「ハッピーリタイア」を実践できたのは、20代からコツコツと、損得抜きに取り組んできたご褒美だと思っています。
自分なりの後悔しない人生を見つけていきましょう。
いかがだったでしょうか。
人生の大先輩の歴史を振り返り、そして学ぶことで自分に活かすことができれば最高ではないでしょうか。
こすけも後悔しない人生を、そしてまだまだ20代やりたいことを貪欲に一生懸命やりきりたいと思います。
長くお付き合い頂きありがとうございました。
それでは、また次回。
See You Again.
こすけ